「Left Alone」第82章(1/2) | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 貨物船に戻ったのは日付が変わる頃だった。
 八月十二日、日曜日。学生は夏休みで曜日や日付の感覚がおかしくなっていて、そういえば世間はお盆休みに突入していることを今頃になって思い出した。まあ、それ自体はアタシの置かれた状況にはあまり関係ないが。
 いや、あった。このまま船に監禁されて朝を迎えたとしても、休みが明ける十六日まで造船所があるこの区画には誰も近寄ってこない。記憶違いでなければ近くにプレジャーボートやジェットスキーの販売店もあった筈だが同じく休みだろう。この辺りにだって民家がないことはないが、造船所を取り巻く高い壁越しに船上の様子が目に入るとは考えにくい。勿論、精一杯の大声を出しても届きはしない。
 福岡市の繁華街から一キロも離れていないこんなところがの陸の孤島という事実は、アタシを暗澹たる気分にさせた。
「そのザマじゃあ、逃げるのは無理だな」
「……そうね」
「さっきみたいに抱きかかえてやろうか?」
「結構よ。自分で上がれる」
「へえ、そうかい」
 ハルは底意地悪そうに目を細めた。
 足枷を嵌められたままで船に上る階段を上るのは難儀だったが、ハルに抱えられたくなかったので何とか自力で甲板まで上った。
 しかし、それでも何度かよろけそうになった。その度にハルは手を伸ばしてはアタシの身体に触ってきた。馬渡の言いつけがなければ迷わずアタシに圧し掛かってくるのだろう。アタシが犯されないのは全てが終わってから殺すつもりだからなので感謝する必要はなかったが、少なくとも先に心を折られずに済むことは幸いと考えるべきだ。
 歩幅が手錠の鎖の長さの分しか取れないので、まるで摺り足の練習のようなよちよち歩きで船室の方に向かった。
「そっちじゃねえ」
「えっ?」
「こっちだ」
 ハルが指差したのは甲板の端に開いている小さな入り口だった。中には下りの階段が見える。ハルは懐中電灯の先でアタシに降りるように促してきた。
 足を踏み外さないように気をつけながら階段を下った。
 貨物船の中に入るのは初めてだった。アタシの知っている船は能古島に渡るカーフェリーと、そうでなければ映画で見るような客船だけだ。
 甲板の下の空間はがらんとした空洞だった。幅は船と同じおよそ十五メートルくらい、奥行きもだいたい同じくらいだった。船の長さからすると四分の一から五分の一程度しかない。船倉は幾つかの区画に分かれているようで、奥は鉄骨むき出しの仕切り壁に遮られていた。甲板までの高さはだいたい七、八メートルといったところか。造りから考えると天井は開口部になっている筈だが、懐中電灯の灯りが届かないのでどういう構造なのかは見えなかった。
 想像していたようなカビ臭さや異臭はしなかった。幾分、錆の匂いがするのは積み荷の残り香というよりは船が老朽化しているからのように思えた。
「こんなところに閉じ込める気?」
「船室より広くていいだろ」
「トイレは?」
「そこら辺の隅っこでやれよ」
「最低」
「よく言われる」
 ハルはアタシを後ろから小突いて壁まで歩かせた。
 ふと、人影が見えた。よく見ると、由真が壁に寄り掛かるように座らせられていた。
 離れていたのはほんの二時間程度の筈だが、衰弱の度合いは一層進んでいるように見えた。両手に手錠を掛けられているが何処にも繋がれてはいない。灯りに照らされた由真は眩しそうに目を細めながら小さく身じろぎをした。
「由真!」
「……あ、真奈、お帰り」
 とろんとした口調に背筋が凍るような思いがした。
「あんたたち、由真に何したの?」
「いや、何も……。ああ、ケンがビールでも飲ませたんだろう」
 よく見ると由真の足元には発泡酒の缶が転がっていた。
 薬物の影響じゃなかったことに思わず安堵のため息が洩れた。しかし、すぐに別の怒りがこみ上げてきた。
「ちょっと、何考えてんのよ!」
「……何だよ、急に。水分を取らせとけって言ったのはてめえだろうが」
「馬鹿じゃないの!? 脱水症状起こしてるのにアルコール飲ませたら逆効果でしょ!?」
「そんなこと、俺に言われてもな。喉が渇いて死ぬよりはマシだろ」
 アルコールには強力な脱水作用がある。二日酔いの朝、異常に喉が渇くのはそのせいだ。こいつらはそんなことも知らないのか。
 アタシは由真の傍らまで歩いていこうとした。
「――ああ、ところでよ」
「何よ?」
 振り返ったアタシに向かって、ハルは急に薄気味悪い愛想笑いを浮かべた。
「この前のお返しだ。忘れないうちにな」
「何の――」
 次の瞬間、左の膝に激痛が走った。
 喰らったのは体重がしっかり乗ったローキックだった。あまりの痛みに悲鳴すら出ない。アタシはその場にもんどりうって倒れた。
「真奈ッ!!」
 アタシの代わりに由真が甲高い悲鳴を上げた。それまでの緩慢さが嘘のようにアタシににじり寄ってくる。寄って来られても何にもならないので押し止めようとしたが、アタシに出来たのは身体を丸めて膝を抱え込んで呻くことだけだった。
「ちょっと、何すんのよッ!」
「うっせえよ。この女に蹴られたところ、骨にヒビが入っててよ。くそっ、本当なら入院しなきゃいけねえのに、あの人使いの荒いオッサンのせいで痛み止めだけで我慢しなきゃならねえんだ」
「そんなの、あんたが悪いんじゃない!」
「てめえ……」
 普段はふわふわした可愛らしい声で喋るくせに、怒ったときの由真の声は妙にドスが利いている。
 しかし、それも今はハルの怒りに油を注ぐ役にしか立たなかった。頼むから黙っていてくれと思ったが、それを言うことも今のアタシには出来ない。
 まずい。膝はただでさえ横方向からの衝撃に弱いのに、不意打ちに加えて脚の自由が利かなくて威力を吸収できなかった。
 涙が滲むのを我慢して爪先を動かしてみた。関節そのものは砕けたんじゃないかと思うほど痛い。反面、膝から下はしびれて感覚がなくなっていた。動くことは動くので折れてまではいないのだろうが、立って歩けるかどうかは甚だ怪しい。
 アタシは浅い呼吸を繰り返しながら身体を起こした。
「……あんた、そのオッサンにアタシたちに、傷つけるなって……言われてるんじゃなかった?」
「ああッ?」
 今にも由真に襲いかかろうとしていたハルの動きが止まった。
「言いつけ破って……どうなっても、知らないわよ?」
「考えすぎだっての。だいたい、死体が怪我してたって誰も気になんかしねえよ」
「それはどうかしら? ……生きているときの怪我と、死んだときの怪我は、区別できる……らしいわよ?」
「だから何だ? いつ、怪我したかなんか分かんねえさ。てめえ、空手やってんだろ? 稽古の時の怪我だって思われるだけさ」
「……かもね。でも、彼女はそうは、いかないわ」
「ちっ」
 ハルは苦々しそうにアタシを睨んだ。アタシの背後では由真が負けじと睨み返しているのだろうが、見えないところで触れてきた手はガタガタと震えていた。
「ふん、大人しくしてろよ」
 捨て台詞と一緒に左脚を目がけて蹴りが飛んできた。膝への直撃は避けられたがふくらはぎの辺りに当たっただけで眩暈がするほどの痛みが走った。
「うあッ……」
「いい気味だぜ。そうやって芋虫みたいに転がってろ」
 ハルはそれだけ言い残すと階段を上って行った。アタシは痛みを紛らわそうと必死に身を捩った。額からものすごい量の脂汗がにじみ出している。
 ハルの背中に向かって精いっぱいの呪詛を投げかけてやりたかったが、アタシにはもはや首を持ち上げるだけの力も残っていなかった。